「公共の福祉」と人権の制約

憲法13条では、国民の権利については、「公共の福祉に反しないかぎり」国政上で最大の尊重を必要とすると定め、22条(職業選択の自由)、29条(財産権)では、「公共の福祉」による制限がある旨を規定している。

しかし、「公共の福祉」という不確定概念(内容がさだかでないもの)で人権を制約することができるとすれば、考えようによっては、明治憲法の「法律の留保」よりもたちが悪い。明治憲法では「第22条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ居住及移転ノ自由ヲ有ス」となっており、人権が制約される場合の要件は法律に明記される建て前である。

日本国憲法は「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利」(11条)であり、「すべて国民は個人として尊重される」(13条)とし、13条、22条、29条では「公共の福祉」によって、人権保障にも「限界」「制約」があることを規定している。憲法学者は、人権といえども、制約されることがあるのは当然としても、日本国憲法下で、「公共の福祉」という不確定概念で、どのような場合に人権の制約ができるか考え、様々な学説が展開されてきた。

「しかし、そもそも、人権がが「公共の福祉」という実体の定かでないものによって制約されるものかどうか、という議論そのものが、非論理的である。人権が制約されるのは、人権という観念じたいから導かれる・・・限界を踏みはずした場合だけである(内在的制約説)のが基本であり、ただ経済的自由に関するかぎり、・・・社会権の実現ないし経済的・社会的弱者の保護という観点から制約を受けることがある(政策的制約)」(浦部法穂「憲法学教室」)が、「公共の福祉」と人権の制約についての説明として、一番すっきりしていて、わかりやすい。

参考文献
浦部法穂「憲法学教室」第3版
芦部信喜「憲法」第四版

 

「公共の福祉」という言葉

日本国憲法には「公共の福祉」という言葉が使われている。12条で、国民は基本的人権を「公共の福祉のために」利用する責任を負うとし、13条では、国民の権利については、「公共の福祉に反しないかぎり」国政上で最大の尊重を必要とすると定める。22条(居住、職業選択の自由)、29条(財産権)では、「公共の福祉」による制限がある旨を規定している。

「公共の福祉」は”public welfare”の訳語である。
英和辞典を引いてみると”public”には、「公共の」「公衆の」「公(おおやけ)」「社会全体の」という意味であり、”welfare”の語源は”wel”「うまく」+”fare”「やっていく」となっている。意味合いとしては「みんなで、うまくやっていくこと」ではないだろうか。明治以来の近代化の中で、日本の法体系は、西洋法を継受して(お手本として)制定されてきた。”welfare state”は、福祉国家と訳されており、” public welfare ”に、「公共の福祉」という言葉が選択されたのではないかと思われる。

しかし、私の中では「公共の福祉」という言葉には違和感がある。その理由は、現代の日本語で使われる「公共」も「福祉」も、”public welfare”本来の意味とは違うのではないかという疑念である。多くの人は「公共の福祉」という言葉には、なんとなく「全体の利益」という印象を抱くのではないだろうか。

以下「憲法Ⅱ」新版(宮沢俊義)からの引用である。「公共の福祉およびそれに類する言葉には、多かれ少なかれ全体主義的ないし超個人主義的な意味が伝統的に伴いがちであるが、もちろん日本国憲法における公共の福祉にそういう意味をみとめることは許されない。」「日本国憲法が、その条項に、公共の福祉をもち出したことは、立法技術的にいって無用であったとみるべきであり、また、それは、賢明でなかったとも評される」。また尾高朝雄論文「公共の福祉」から「正しい意味での個人主義が根を下ろしていない社会でこのような概念を濫用することは、戦前および戦時中の滅私奉公主義に接近する危険もはらみうる」としている。

やはり「公共の福祉」という言葉には、全体主義的な匂い(水戸黄門のご印籠のような)があることは、まちがいなさそうである。

参考文献
宮沢俊義「憲法Ⅱ」新版